やる気なし
今日はやる気なし。
ゴールが見えたからかな。
大分アクセルを緩めてる感覚がある。
そろそろ糸の切れた凧になりそうだ。
孤独
ある人の孤独を思う。俺ではないよ。
人ならざるものゆえの孤独を思う。
人に囲まれる人ならざるものがいかに孤独か。
もう少し早く会えれば、また別の展開もあり得たか。しかし最早後の祭りだ。
人々よ、せめてもう少し謙虚であれと願うが、残念ながらそうはならぬのも既知である。
人の罪深さに思いを馳せつつ、万感を込めて合掌する。
スマフォからブログを書いてみた理由
なぜスマフォからいまさら書いてみたかというと、前書いた公園レビューを試しにしてみようかと思ったから。
試しに書きたい公園を並べてみるが、まずこの辺が鉄板。
- あかつき公園
- 築地川公園
- 鉄砲洲児童公園
- 桜川公園
- 京橋公園
個人的には祝橋と亀井橋も外せないし、息子的には近所の汽車公園(多分正式名称ではない)も外せない。
でも、、スマフォから文章書けるのわかったけど、写真アップが厳しいのもわかった。
別でやる方が良さそう。
ぼちぼちリサーチがてら、他のブログサービスもつまみ食いしないとなぁ。
個性
スマフォからの投稿は許容範囲な気がする。誤字率は上がるので見苦しくはなるのだが、まあ見苦しさは今更だしな。
ということで連投。
個性について、なんとはなく考えている。
個人的には個性とは世界を彩る必須要素であると思っていて、無個性な世界は滅びればいいと思うので、必然的に個性的な人を好む傾向になる。
また、その好みからして、自分にも個性を求めている。個性がなければいなくてもさして違いがないので、自身の個性だと思うところにはこだわって生きている、と、思う。
ただ、個性というのは周りと違うその人個人の何かということになるので、当然個性が大きければ大きいほど、周囲との摩擦は大きくなる。
摩擦が大きければ問題も起こりやすくなるし、問題が起きれば疲れもする。
疲れにはいくつかの種類があるのだが、感覚的には自身の存在が害悪だと感じられる疲れが、一番存在の消滅を呼びやすい疲れかなと思う。
個性を保ちながら摩擦を起こさないことはなかなかに難しいので、個性を保ちつつ疲れないようにしていかないと、割と早期に消滅してしまうように危惧する。消滅するのが個性なのか、個人そのものなのかは場合によると思うが。
二つ、つまらない話を書きたい。
1つ目は、優しさと個性の話。
最近、世界はどんどん優しくなってきているのかなと感じている。
優しい世界とは何に対しての優しさかというと、これまでの弱きに対する優しさだと思っていて、この方向性自体は個人的には正しさしか感じない。
一方で、優しさが導くゾーニングの話の発展系として、赤ちゃんのできない人に赤ちゃんの話題を見せないようにしようとか、宗教Aの人に異教の話題を見せないようにしようとかまでいくと、世界はどこまでも優しくなるなんてことは不可能だと見えているので、どこかで折り合いや棲み分けが必要になる。
そういった折り合いを、多数決でつけるのが民主主義だし、それで作られ保たれるのが秩序だ。
駅に多機能トイレが設けられるように、多数派が少数派に配慮することはできるし、階段の横にエレベーターやスロープをつけることはできる。秩序が構築できる優しさは、その辺りが限界。
ゾーニングの話をしたい人は他所行ってもらいたいのだけど、俺がここでしたいのはこれと個性の話だ。
個性は、特に摩擦を呼ぶ個性は、こういった優しい世界に対して非常に難しい舵取りを迫られると思う。
今だと石原慎太郎かなにかが言ったババア発言とかが個性として許されることは、発言者が誰であってもありえないだろう。この主張が少数派を守る優しさの対象になることはないと思う。傷つく人のほうが多いから。
しかし、主張の正しさはさておき、その手の誰々が不快になるからという優しさから来る圧力は、個性に対しての弾圧につながる。
問題は言論弾圧に平然としてられるほど多くの人間は強くないという辺りにあって、根が深いのだけど、ともかく、尖った単独突破型バカより訳知り顔の迎合型バカがもてはやされるようになり、後者の個性が幅利かすのは別にいいけど、前者がよほどのマッチョじゃないと消滅してしまうのは一抹の寂しさを感じる。
でも多分世界はしばらくこのまま進むんじゃないだろうか。誰かを傷つける少数派の主張は、、例えば女性が参政権を持つ国は駄目になるという主張など、は、しばらくおとなしくなるのだろう。
(スマフォで書いたことを後悔しまくってるがもう少し続く)
2つ目は、無個性な作業で得られる自己肯定について。
俺も一応子供がいる。子育てにおいては、俺が何者であっても無条件で良いとされることがいくつかある。
掃除、洗濯、炊事、子供と遊ぶ辺りもそうかもしれない。
俺が変な個性を出す必要もなく、家事などをやっていて、家のお金を入れて、まだやったことないけど大きな家でも買って、子供に寂しい思いをさせることもなく、幸せな家庭を築いていくのは、文句なしにいいことだろう。
事実として、子供の歩調に合わせて歩き、子供が楽しめるように遊べれば、自分のために何もしてやれてない時でも自己肯定感は高い。
これで他人様に迷惑もかけず、父母共に子供に依存しすぎることもなく過ごしていければ、個性なんて必要ないのではという感もある。
実際、さして必要ない。一番ネックになりそうな自分の感情すら、肯定感に包まれるのだから。
そのような時代に、個性を誰が必要とするのだろう。
社会にも必要とされず、自身も実は無くても生きていける。むしろない方が楽。
俺はどうせだから面白いほうがいいから個性がある方がいいと思っていたけど、面白いというのは起伏が必要で、起伏を起こすと俺だけならまだしも周りの誰かも必ず巻き沿いを食う。
巻き込まれる側は、まあ、面白いとは思えないことが多いよな。
俺個人の面白さのためだけに必要なこの摩擦の源は、そろそろ消滅させるべきか。
俺は割と混沌主義なので、世界は面白いほうが好きなのだけど、俺でもこうなのだから世界にある個性達は今この瞬間にもたくさん消滅してるんじゃないか。
何やら勿体ない、とてもつまらないことが起きているのではないか。
つまらない方が合理的なのがまた癪に触る。もう世界は個性いらないんじゃないか。どうなんだ。
などと、掃除をしてて思った。
我ながら長すぎて指が攣る。スマフォで書いたのは失敗だった。
なんか思い悩んでる風だが、これは平常運転で、心配されないように掃除中に思ったわけではない話も追記する。
個性はそんな簡単に消滅しないし、問題になるのは個性という性質ではなく発信と発散なので、黙ってる分には大半の個性は無害。
発すると害を出すこともあるけど、直接的ではない発信は面白い形になることが多い。
今の世の中、自分の文書という、もっとも直接的で言い訳の効かない発信方法を手軽にとれるからつまらないのだと思う。
絵やら小説やら、抑制された個性を変形させて叩きつける創作物はだから尊い。
俺もこんなの書いて迂闊に発散してないで、そういう何かにぶつけられるようにできるといいんだろうね。
気の利いた言葉
別れにおける気の利いた言葉というのがなかなか出てこない。
暇なので別れる際の挨拶をちょっと考えてみる。
バイバイ
これはあっさりすぎるんじゃないだろうか。
日本人なのに英語使っているのがよくわからないし。しかもbye byeですらなく「バイバイ」。
ネイティブな発音でいい感じに言えるならまだしも、色々といけてない。
さようなら
さようならってなんか今生の別れ感がある。いや今生の別れならいいのか。
いやなんか語感に妙なおセンチ感があって俺の主義に合わない。没。
また会いましょう
これは一般的には悪くなさそうだ。
ただ個人的には一期一会が好きなので、なんか未練がましい感じでダメだな。
しかも「また」っていつだ、何時何分地球が何回回った時の事だ、と、具体化したくなるやつだ。
また来世で
「さようなら」と「また会いましょう」の中間くらいか。
今生の別れではあるけど、縁があればまたそのうち。輪廻が回れば会うだろうくらい。
個人的には結構好きだが、一回生まれ変われば必ず会えるような匂いを感じので、そんなつもりがなくてもきもく受け取られがちな気がする。
また来世とか来来世とかその辺で
このくらい濁せばどうだ。ダメか。やっぱり輪廻を匂わすだけでダメか。
個人的には結構好きな挨拶だが。来世より前に会ったら会ったでそんなに気まずくもないし。
縁があればまた
よくあるやつ。「縁があれば」と具体的にしているので、ただの「また会いましょう」よりマシか。
未練がましいフィルタに引っかかるので個人的にはない。
・・
無言。文章にすると中黒二つ。
文章なら一つの中黒に100の意味をこめた、もう一つの中黒にまた別の100の意味を込めた、とかいくらでも後付け設定ができる。完璧ではないだろうか。
でも気の利いたセリフというかセリフですらない。文章ならともかく対面でやるとただの無言だ。無言で別れを言うのもそれはそれでどうなのかという気もする。
では、そういうことで・・
これはよく使う気がする。
どうせ何を言っても気が利かないので、なんかよくわかんないけど別れの挨拶ということにして、あとの細かい点は受け取り手に委ねてよろしくしてしまうメソッドだ。
気が利いてるかというと、気は利いてない諦めの境地にある言葉だが、セリフにならない中黒も併用できる。便利。
ベトナム語
Hen gap lai。Henが約束、gapが会う、laiがまたって感じの意味なので、まんま「また会いましょう」だ。
Tam biet。さようならという意味で使われる。しかしすまん意味は解説できないのでインターネットの広大な力に頼る。
https://en.wiktionary.org/wiki/t%E1%BA%A1m_bi%E1%BB%87t
中国語の暫別という言葉由来らしい。しばしの別れって感じか。思ったよりまた会いましょうに近かった。どっちも個人的にはいまいちということになる。今度ベトナム行く時困りそうだ。
じゃあの
キャラがね・・もとからそういうキャラならこれでいいんじゃないでしょうか。
しかし俺がいきなりこんなセリフいったら、ちょっとキャラぶれてませんかね、と突っ込まれてお別れどころではなくなってしまう。
そんじゃーね
じゃあのと同じだ。
というかこの辺よく考えたらさっき書いた「では、そういうことで・・」と同じやんけ。「では系」と分類しよう。
「そういうこと」とか余計な言葉をつけてないのであっさりしていて使いやすい。
結論
- すぐに会う予定があるなら: また会いましょう
- 死別とかでもう会う事がなさそうなら: さようなら、また来世とか来来世とかその辺で(長い)
- 特になんということでもない時: では系
インターネットに向けた文書だと誰が読んでるかわからないから「では系」が強い気がする。
込める意味の量に応じて中黒の量を調整すればよかろう。気は利いてないが。
ということでこの暇な時間では、気の利いたセリフは特に思いつかなかった。
別れの際はまた適当な挨拶をその場で考えて、「ああ、また気の利いた事言えんかった」と後でがっかりするんだろうがしょうがない。
また来世とか来来世とかその辺で思いつく事を期待しよう。
では、そういうことで・・