個性

スマフォからの投稿は許容範囲な気がする。誤字率は上がるので見苦しくはなるのだが、まあ見苦しさは今更だしな。
ということで連投。

個性について、なんとはなく考えている。

個人的には個性とは世界を彩る必須要素であると思っていて、無個性な世界は滅びればいいと思うので、必然的に個性的な人を好む傾向になる。

また、その好みからして、自分にも個性を求めている。個性がなければいなくてもさして違いがないので、自身の個性だと思うところにはこだわって生きている、と、思う。


ただ、個性というのは周りと違うその人個人の何かということになるので、当然個性が大きければ大きいほど、周囲との摩擦は大きくなる。

摩擦が大きければ問題も起こりやすくなるし、問題が起きれば疲れもする。

疲れにはいくつかの種類があるのだが、感覚的には自身の存在が害悪だと感じられる疲れが、一番存在の消滅を呼びやすい疲れかなと思う。

個性を保ちながら摩擦を起こさないことはなかなかに難しいので、個性を保ちつつ疲れないようにしていかないと、割と早期に消滅してしまうように危惧する。消滅するのが個性なのか、個人そのものなのかは場合によると思うが。



二つ、つまらない話を書きたい。



1つ目は、優しさと個性の話。

最近、世界はどんどん優しくなってきているのかなと感じている。

優しい世界とは何に対しての優しさかというと、これまでの弱きに対する優しさだと思っていて、この方向性自体は個人的には正しさしか感じない。

一方で、優しさが導くゾーニングの話の発展系として、赤ちゃんのできない人に赤ちゃんの話題を見せないようにしようとか、宗教Aの人に異教の話題を見せないようにしようとかまでいくと、世界はどこまでも優しくなるなんてことは不可能だと見えているので、どこかで折り合いや棲み分けが必要になる。

そういった折り合いを、多数決でつけるのが民主主義だし、それで作られ保たれるのが秩序だ。

駅に多機能トイレが設けられるように、多数派が少数派に配慮することはできるし、階段の横にエレベーターやスロープをつけることはできる。秩序が構築できる優しさは、その辺りが限界。

ゾーニングの話をしたい人は他所行ってもらいたいのだけど、俺がここでしたいのはこれと個性の話だ。

個性は、特に摩擦を呼ぶ個性は、こういった優しい世界に対して非常に難しい舵取りを迫られると思う。

今だと石原慎太郎かなにかが言ったババア発言とかが個性として許されることは、発言者が誰であってもありえないだろう。この主張が少数派を守る優しさの対象になることはないと思う。傷つく人のほうが多いから。

しかし、主張の正しさはさておき、その手の誰々が不快になるからという優しさから来る圧力は、個性に対しての弾圧につながる。

問題は言論弾圧に平然としてられるほど多くの人間は強くないという辺りにあって、根が深いのだけど、ともかく、尖った単独突破型バカより訳知り顔の迎合型バカがもてはやされるようになり、後者の個性が幅利かすのは別にいいけど、前者がよほどのマッチョじゃないと消滅してしまうのは一抹の寂しさを感じる。

でも多分世界はしばらくこのまま進むんじゃないだろうか。誰かを傷つける少数派の主張は、、例えば女性が参政権を持つ国は駄目になるという主張など、は、しばらくおとなしくなるのだろう。


(スマフォで書いたことを後悔しまくってるがもう少し続く)



2つ目は、無個性な作業で得られる自己肯定について。

俺も一応子供がいる。子育てにおいては、俺が何者であっても無条件で良いとされることがいくつかある。

掃除、洗濯、炊事、子供と遊ぶ辺りもそうかもしれない。

俺が変な個性を出す必要もなく、家事などをやっていて、家のお金を入れて、まだやったことないけど大きな家でも買って、子供に寂しい思いをさせることもなく、幸せな家庭を築いていくのは、文句なしにいいことだろう。

事実として、子供の歩調に合わせて歩き、子供が楽しめるように遊べれば、自分のために何もしてやれてない時でも自己肯定感は高い。

これで他人様に迷惑もかけず、父母共に子供に依存しすぎることもなく過ごしていければ、個性なんて必要ないのではという感もある。

実際、さして必要ない。一番ネックになりそうな自分の感情すら、肯定感に包まれるのだから。



そのような時代に、個性を誰が必要とするのだろう。

社会にも必要とされず、自身も実は無くても生きていける。むしろない方が楽。

俺はどうせだから面白いほうがいいから個性がある方がいいと思っていたけど、面白いというのは起伏が必要で、起伏を起こすと俺だけならまだしも周りの誰かも必ず巻き沿いを食う。

巻き込まれる側は、まあ、面白いとは思えないことが多いよな。

俺個人の面白さのためだけに必要なこの摩擦の源は、そろそろ消滅させるべきか。



俺は割と混沌主義なので、世界は面白いほうが好きなのだけど、俺でもこうなのだから世界にある個性達は今この瞬間にもたくさん消滅してるんじゃないか。

何やら勿体ない、とてもつまらないことが起きているのではないか。

つまらない方が合理的なのがまた癪に触る。もう世界は個性いらないんじゃないか。どうなんだ。



などと、掃除をしてて思った。

我ながら長すぎて指が攣る。スマフォで書いたのは失敗だった。

なんか思い悩んでる風だが、これは平常運転で、心配されないように掃除中に思ったわけではない話も追記する。
 


個性はそんな簡単に消滅しないし、問題になるのは個性という性質ではなく発信と発散なので、黙ってる分には大半の個性は無害。

発すると害を出すこともあるけど、直接的ではない発信は面白い形になることが多い。

今の世の中、自分の文書という、もっとも直接的で言い訳の効かない発信方法を手軽にとれるからつまらないのだと思う。

絵やら小説やら、抑制された個性を変形させて叩きつける創作物はだから尊い

俺もこんなの書いて迂闊に発散してないで、そういう何かにぶつけられるようにできるといいんだろうね。